[歴史総合]高校日本史のその先へ!赤穂事件(忠臣蔵)の概要|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。



今日のテーマは歴史総合高校日本史から赤穂事件を取り扱ってみたいと思います。おそらく高校日本史レベルを逸脱した話まで広げていくと思いますが、歴史はむしろ試験に出ないあたりから面白くなってくるというか。そして個人的に最近妙に気になっていたテーマなので、昨日図書館にハマってじっくり調べてみました。あまりやり過ぎると良くないのですが、気になるテーマはご自身で掘り下げて調べてみられると結構楽しめると思いますので是非試してみて下さい。



熊本学習塾ブレイクスルー・アカデミーが教えるのは、試験のための勉強ではなく人生のための学び方です。そして、勉強ではなく学びだからこそ、面白いほどに身になる。ましてや赤穂事件<忠臣蔵>は日本史に稀に見るThe侍的なドラマです。ドラマと言ってしまうとちょっと軽く聞こえてしまいますが、主君の敵討ちのために四十七士が命を賭して闘う生き様は、かつての日本にいた侍というものの存在を深く感じさせます。それは日本の歴史である前に、私たち日本人の過去であり、私たちのルーツでもあるのです。そんな散ってなお残る生き様にスポットを当てて、歴史を堪能してみたいと思います。

歴史総合:高校日本史「赤穂事件<忠臣蔵>」とは

ちょっと固い始まりですが、まずはここから。そもそも赤穂事件とは何かという話です。ちなみに「忠臣蔵」というのは歴史的な出来事の名称ではありません。これは実際に起きた赤穂事件の半世紀後、人形浄瑠璃や歌舞伎などで語られるようになった時に付けられた作品名であり、それこそドラマの題名。歴史的な名称は「赤穂事件」です。赤穂事件を見世物として観客を楽しませるように脚色を加えて描きなおした作品のタイトルが「忠臣蔵」です。ここの線引きをしておいて下さい。


さて、赤穂事件ですが、実は2つの事件の総称です。一つは赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり、浅野内匠頭あさのたくみのかみ)が江戸城松の廊下にて、高家・吉良義央(きらよしひさ、吉良上野介きらこうずけのすけ)に斬りつけた事件。もう一つは赤穂藩士ら四十七人が主君の無念を晴らすべく吉良邸に押し入り義央を討った事件です。この2つを合わせて赤穂事件と呼びます。


ではなぜ浅野内匠頭は吉良上野介を殺そうとしたのか。実はこの点は未だに解明されてはいません。如何せん当時の資料が少ない上に、彼らの事情を把握している者が少なかったため、様々な可能性が語られるに止まっています。例えば私が今観ている1971年放送の大河ドラマ『大忠臣蔵』(もう50年以上前の作品!)では、赤穂藩の運営する塩田技術に目を付けた吉良義央がその申し出を断られて逆ギレし、その時から事あるごとに浅野長矩に嫌がらせをする、というものでした。当時赤穂藩の塩は全国生産の7%を占めるほど流通しており、赤穂藩の良い収入源になっていました。それこそ時は元禄時代。1680年に就任した第5代目の将軍・徳川綱吉の改鋳政策によってインフレが起きており、その煽りをモロに受けた武士たち(つまり大名も含めて)が経済的に第ダメージを受けている時期ですから、その赤穂塩の技術が羨ましくて仕方なかった。それに吉良は鎌倉時代から続く家柄で、足利の血筋に今川義元に知る今川家の血も入った名門。将軍と朝廷の使者をお迎えする役職の高家に任ぜられた家ですから、立場的にも浅野長矩の分家浅野家よりも上なのです。ちなみに長矩を分家とする本元の浅野家は、豊臣秀吉の正室・おねの実家に当たります。おねの弟である浅野長政から続く血筋に本家があり、長矩らはその広島の本家から別れて兵庫県姫路に移ってきた分家なわけです。ですから、格下の浅野が運営する赤穂藩が塩で儲けているのが妬ましく、さらにその技術を所望しても断ってきたという態度にダブルでムカついたから嫌がらせを始めた、というのが大河ドラマで語られたものでした。


赤穂事件はなぜ起き、どう裁かれたのか

我慢に我慢を重ねた長矩でしたが、ついに堪忍袋の緒が切れて、1701年3月14日、あろうことか、朝廷からの使者を出迎える大事な儀式の最中に刃傷(にんじょう)事件を起こしてしまいます。先述したように吉良家は高家であり、朝廷からの使者を出迎える役目を仰せつかった立場で、その出迎えのための雑用係である饗応役を任されたのが浅野長矩でしたから、要は将軍にとっても大事なイベントで浅野は雑用係として吉良の下で指示を受けながら働かないといけないという状況の中、執拗に嫌がらせを受けていたということになります。これはキツい(汗)何か失態でもあれば即アウト。信用を失うばかりか、家を潰されてしまいます。家というのは、要するに赤穂藩が潰されるという状況です。失敗が許されない中で、あろうことか指南役から嫌われて嘘ばかり教えられるという。それを献身的な家臣たちの機転でなんとかクリアしてクリアして、長矩も必死に怒りを抑えて、ようやく最終日であと1日我慢すれば終わるって時に、吉良上野介の追い討ち。そして怒り爆発。ついに長矩は刀に手をかけてしまいました。


当然このことはすぐに将軍綱吉に伝わります。綱吉は歴代の将軍の中でも天皇へのご配慮が格別だった方。その大事な儀式で案内役を任された浅野が刃傷ですから、ブチ切れるのも無理はありません。朝廷に対しても大変失礼な問題であり、かつ将軍である自分の権威も傷つけたとして、問答無用で即日切腹ということになってしまいます。それも5万石の大名には決してあり得ない、庭での切腹。つまり完全に罪人として処罰されたわけです。一方で吉良上野介は無罪放免。むしろその場でやり返さなかったのはエライ!くらいの言われようです。その場に居合せ事を治めたとされる梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)は、浅野を取り押さえて吉良を守ったとして500石加増という待遇まで受けています。


このあまりに偏り過ぎた裁きに、家臣たちは怒り心頭。それこそ赤穂藩主の切腹と同時に、赤穂藩江戸邸並びに赤穂藩そのものが召し上げ、お取り潰し。当然家臣一同全員クビです。抱えていた300人余の武士たちは皆その瞬間に浪人となります。さらには赤穂藩を支えてきた農民たちは突然放り出されるわけですから、これは本当に一大事なのです。


さらに厄介なのは、吉良家のバックに上杉家がいるということ。米沢藩15万石の大大名とは、養子を交わすほど懇意にしており、安易に吉良上野介に手を出せば、上杉勢が攻めてくるというので、家臣筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も慎重な動きを見せます。勿論中にはすぐにでも敵討ちをすべしと騒ぐ家臣もいました。当然意見は割れる。しかし確実に吉良上野介を討つには、決して迂闊な行動を取ってはいけないとして、1年10ヶ月もの期間を耐え凌ぐわけです。そしてついに1702年12月15日未明、吉良邸に討ち入りを果たします。ようやく主君・浅野内匠頭の無念を家臣たちが晴らしたのです。


そしてこのことはすぐに世間に知られることになります。世間は大きな驚きと共に、主君の無念を晴らさんと討ち入りを果たしたこの赤穂浪士たちを称賛します。松の廊下事件では浅野長矩のみが一方的に断罪され裁かれる形でしたが、今回は世論のみならず幕府の最高司法機関である評定所も「これは違法行為ではない」と裁決を下しました。武士は主君に忠孝を尽くすというのが幕法であるし、勿論徒党を組むことは禁じられているが、討ち入りの際に大人数になったのは本懐を遂げるため致仕方ないことであったという判決です。


しかし将軍綱吉は悩みました。政道からすれば彼らを裁かなければならなかったからです。かと言ってこれを罪人として裁けば世論から叩かれるのは目に見えている。一方、これをもし無罪放免にすれば、同じく敵討ちと称した反乱が各所で頻発する恐れもある。そこで、ちょうどその時期に年賀の登城をされていた公弁法親王(こうべんほつしんのう)に意見を求めた綱吉は「このまま生かしても、二君に仕えることなどできないあの者たちは名もなき死を遂げるだろう。そうであれば、武士としての名誉の死を与えた方が、かえって彼らの名は永遠に残ることになるのではないか」と諭され、この瞬間に赤穂浪士たちの運命が決まったとされています。


赤穂事件と熊本

実は赤穂事件と熊本は深いつながりがあります。それは吉良邸討ち入りを果たした大石内蔵助らの身柄を預かったのが熊本藩ら4藩だったからです。


吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士四十七名は、その後熊本藩の細川家、毛利家、水野家、松平家に預かりの身となります。その中でも、この討ち入りに大いに感銘を受けた細川越中守綱利(ほそかわえっちゅうのかみつなとし)は、自ら出向いて預からせて欲しいと願い出たほどで、その熱意は875人もの出迎え人員を導入したことからも伺えます。


大石内蔵助はじめ17名は熊本藩で大切に預かられたと言います。食事も豪勢なもので、徐々に酒まで出るようになり、大石らの方が恐縮するほどだったそうです。さらには、本来は禁じられているはずの、討ち入りの話を聞くという行為も、3人の世話係のうちの一人・堀内伝右衛門(ほりのうちでんえもん)が率先して破り、彼らの話を記録に残すということまでしています。さらには、彼らの縁者との仲介も細かに行い、彼らが切腹した後も、彼らの様子を縁者に伝え歩くという献身ぶりでした。この堀内伝右衛門の懇願により、彼らの遺髪が伝右衛門の菩提寺である熊本県山鹿市の日輪寺に祀られることになりました。


先日巨大な弘法大師像に惹かれて訪れた日輪寺。そこにあった遺髪供養塔から赤穂事件の興味をそそられ今に至ります。その時何が起きたのか。柳沢吉保(やなぎさわよしやす)には今回触れませんでしたが、彼と吉良がなぜ裏でこそこそしていたのか、吉良と浅野の関係は?どうして吉良は無罪放免な扱いだったのか、当時の元禄時代とはどんな時代だったのか?など、気になることが全体的に分かってスッキリしました。歴史はやっぱり面白いですね^ ^





 

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