「やる気のない子は放っておかれるしかないのか問題」に関する考察|熊本市の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

こんにちは。熊本市の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。


今日取り上げるのは「やる気のない子」についてです。これは私の知り合いがSNSでシェアしていたある方の記事にインスピレーションを受けて書き上げたものになります。


この「やる気のない子」「やる気のない生徒」というのは常に問題として取り上げられるものの1つですよね。授業をする立場に立ってみると、このやる気のない生徒にどう火を点けるか、みたいな部分で結構精神をすり減らしてしまう、なんて先生も少なくないはずです。


かく言う熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー代表の私は、自分自身が学生時代にやる気のない生徒だっただけに、この「やる気のない生徒」というレッテルの貼り方に敏感でして、だからこそやる気のない子の気持ちも分かってしまうというか。そもそも勉強なんて、やる気がないのが当たり前で、やる気があることの方がレアなんじゃないのか!?という気さえしてしまいます(いえ、実際はめちゃくちゃ研究して観察して行き着いた結論ですからご安心下さい^ ^; )。なんせこの「やる気」というテーマは私の得意分野ですから、今日はこの「やる気のない子」にフォーカスしてお話をしてみたいと思います。


あ、ちなみにですが、トップ画像に採用したカバ、実は地上最強の生物だったりします。見ての通りずんぐりした図体で動きも遅そうですが、実は彼らを捕食する動物はいません。ライオンやワニですら彼らに敵わないのです。スイカを軽く噛み砕く顎に、鋭くデカいキバがあります。見た目とは裏腹に、怒るとかなりヤバい動物なのです。。。

やる気のない子は放っておかれるという”矛盾”

まずお話したいのは「やる気のない子は放っておかれるという”矛盾”」についてです。なぜ”矛盾”?それって普通なんじゃないの?と思われるかも知れませんが、理想論を持ち出すと、それって矛盾に感じてしまうんです。


そもそも教育の目的は、国民の育成にあります。この国を支える若者を、富国強兵の理念の下(学制発布当時)、画一的なシステムによってその育成環境を平等に与え、国に資する人材を輩出することが学校設立の目的でした。これが今から150年ほど前の状況です。当時は状況が状況なだけに学校の全国配備が切実な問題でしたが、今は違います。大学全入時代に入って久しく、失われた30年を経た現代の状況を考えると、子どもたちが個人レベルとして、早期に勉強に対する明確な目的を持ちにくい流れになっているのは、おそらく誰の目にも明らかなはずです。それでも、もし前提を「平等な教育環境の提供」とするならば、皆に、それこそ、やる気のあるなしに関わらず、全ての子どもたちに”平等に”教育環境が提供されるべきです。


しかしです。現実はどうかと言うと、分かりやすいのは学習塾ですが、学習塾ではある程度成績に応じてクラス編成がなされており、上位クラスから下位クラスに渡って何クラスかのピラミッド構造になっているのが普通です。難関校受験クラス、中堅受験クラスというネーミングもあるでしょうし、SSとかSAといったネーミングもあるでしょうが、要は成績によるクラス分けです。これは決して悪いことではありません。むしろ合理的です。でもこれを学校でやると、おそらく「教育的ではない」という評価になる。学習塾だから可能なシステムです。


そして学習塾ではそのクラス編成に伴い、担当講師の振り分けもされるわけですが、より優秀なクラスにより優秀な講師があてがわれるのが普通です。だから優秀な子たちは質の高い教育が受けられて、益々優秀であり続けられるし、逆に成績の下位の子たちほど、程々の教育環境の中で程々のままであり続ける。その結果格差がどんどん開いていくわけです。


ここで先程の「理想論」を抱いていたのがかつての私です。どんな理想論かと言うと「優秀でない子たちにこそ、優秀な講師をあてがうべきだ」というものです。できる子たちは、もうできるのだから、そもそも優秀な講師を付けなくても大丈夫であって、むしろ下位の子たちを引き上げることにこそ優秀な講師を機能させるべきであり、そうすれば全体の底上げがなされて、子どもたち全体の平均値が底上げされていく、と私は考えていました。ですから、やる気のない子はむしろしっかりサポートして引き上げるのが本来の教育の目的に即した行動であり、それが放っておかれるというのは教育の目的から鑑みると矛盾ではないのか??と考えていたわけです。


でもそれはきっと間違いだなと、後から自分の考えを改めました。それは何故でしょうか?

「やる気のない子」問題の本質

今日はちょっと真面目モードです(笑)


さてここからは「やる気のない子」が問題とされることに関して、その本質を問い直してみましょう。私はなぜ「優秀でない子たちにこそ、優秀な講師をあてがうべきだ」という自説を曲げたのでしょうか。


一つは経験もあるかも知れません。と言うのも、長いこと”勉強を教える”仕事をしていると、やる気のない子はどうやったってやる気がない子でしかないことが、嫌でも分かってくるからです。そして、そういう子に時間や労力をどんなに掛けても、何の問題も解決しないということも嫌というほど学んでしまいます。すると結論として分かりやすいのは「やる気のない子は極力相手にしない方が良い」というものでした(勿論この結論は、マクロで見るかミクロで見るかというスタンスの差異によってご意見が分かれるところかと思います)。


しかしそれでは理想論が蔑ろなままです。私の中で最初に行き着いた自説を捨てきれているわけではありません。というのも、どう考えても、やる気のある子や成績の元から良い子たちが、もっともっと優秀になっていくことよりも、やる気のない子や成績下位の子たちが改善される方が、世の中全体は確実に良くなるからです。何故なら人口比が違いすぎます。後者の方が圧倒的に、はるかに多い。でもやる気のない子は変わらない。


仮に彼らを変えようとして、それこそ、やる気を出させようとして、優秀な講師をあてがったとすると、その結果は二重の意味でマイナスになります。

①やる気のない子たちは益々キツくなる
②優秀な人材が活きない

です。


「優秀な人材」とざっくり言っていますが、どういった優秀さかにも依りますよね。そういったやる気のない子たちですらもやる気にさせられるような指導ができることを「優秀」とするなら、そんな人材はそもそもほとんどいないし、それくらい優秀な人材なら、本当に優秀な子たちに対応してもらった方が人類にとっては有益です。その前提でいけば、①は考えられないかも知れませんが、おそらく定義がそもそも非現実的でしょう。とするならば、現実的に考えて「優秀な人材」を定義し直せば、教え方が素晴らしく上手い先生、というイメージが妥当なのではないでしょうか。この前提で私は考えていて、そうすると、やる気のない子は余計キツいだけという結論になります。教え方が上手いとか配慮が行き届く先生が授業を担当したとしても、奇跡でも起きない限り、やる気のない子は変わらないからです。それに、やる気のない子は勉強がしたくないからやる気がないのであって、そのやりたくもない勉強をなおやらされるわけですから、キツくないわけがないからです。つまり、やる気のない子は益々キツくなる。


一方で、そういったやる気のない子たちを担当することになった優秀な人材は、結果だけをみると、やる気のない子をどの程度変えられたかで評価されるわけですから、やる気のある子たちを担当する場合と比較すると、おそらく結果は芳しくないでしょう。先ほど学習塾の例を出しましたが、なぜ学習塾が優秀な子たちに優秀な講師を当てるのかと言えば、学習塾というのが”教育”ビジネスだからです。理想を言えば「できない生徒をできるようにする」ことに機能してほしいと思われるかも知れませんが、実際にはビジネスである以上結果が求められますし、学習塾の”結果”というのは有名校への合格者の数ですから、結果を出してくれそうな生徒さんにより力を注いで鍛え、成果を出してもらうことが優先されます。わざわざ成果の出にくいところに限られた優秀な人材を当てることはまずしないのです。そう考えると、逆に最も成果の出にくい、やる気のない生徒さんの対応に当てるというのは、優秀な人材が最も活きない活用の仕方であると言えそうです。もっと言えば、本来やる気のある子たちのために活動したならば出ていたであろう成果が出なかったということにもなります。それは立場を変えると、その優秀な人材の指導を受けられたはずのやる気のある子たちが機会損失の憂き目に遭い、出せるはずの成果が出せなかったということですから、人類全体で考えると、トータルマイナスなのです。


つまり、やる気のない子に優秀な人材を担当させるのはナンセンスであると結論付けられます。誰も幸せにならない。でもこのままでは悶々とするんです、個人的には。何かブレイクスルーできるポイントがあるはずです。ここで私は、根本的にモノの見方を変えることにしました。これで問題の捉え方がガラッと変わったのです。

「やる気のない子」とは誰のことなのか

そもそもです。やる気のない子、とは誰のことなのでしょうか?そして、何故人は「やる気のない子」というレッテルを貼ってジャンル分けしてしまうのでしょうか?


おそらく「やる気のない子」とは、勉強をやる気のない子、授業中に全く覚えようとしない子、言われたこともしないし宿題もしてこないような子、ということでしょう。でも本当に問題なのは、勉強にやる気がある子を基準にしてしまう発想の方にあると言わざるを得ません。何故なら、子どもたちは勉強にやる気がないことの方が自然だからです。それは子どもたちがある年齢になると無理矢理勉強をさせられる現状のシステムから類推できます。


保育園とか幼稚園とかの違いもありますし、家庭環境の違いもあるので、一概に子どもたちがどの年齢から”勉強”というものに強制参加させられるようになるのかは分かりません。きっとバラバラです。しかし国の制度下においては、小学生になると一律に学校という環境が与えられて、システムの中で授業を受けたりテストをやらされたりします。


小学生とは6歳からです。『名探偵コナン』は私の6歳になる息子も大好きですが、そこに登場する小学1年生の子どもたち(勿論、コナンや灰原は除外して下さい)はめちゃくちゃ優秀なんです。また、昔から大人気漫画、大人気アニメとして君臨し続けている『ドラえもん』に登場する子どもたちにしても、あののび太くんですらめちゃくちゃ優秀なんです。のび太なんて、勉強の成績が悪いから「ダメな子だな〜」なんて思われているかも知れませんが、スイッチが入ると途端に猛烈な努力を始め、笑われても跳ね除ける強靭なメンタルを持っています。ガキ大将やクラスのアイドル、鼻持ちならない金持ちのボンボンや学校一の秀才なんかとも分け隔てなく友達関係を形成できるだけの超高度なコミュニケーション能力を有しているのです。そういう子たちを基準にしてしまえば、やる気のない子は相当数に感じられることでしょう。


ちょっと話が飛んだ気もしますが、そもそも学校で勉強を教える立場である先生方からすれば、授業をちゃんと聞いて欲しいと思うし、そうしてくれる子がやはり気持ちの良い生徒でしょう。自分の言うことに全く興味関心を示さない生徒よりも、素直で良い子の方が「やる気のある子」と思えても当然です。


しかし。


しかしです。そもそも何の目的も意味も価値すらも勉強に見出していない6歳ないし10歳12歳の子どもたちが、そんな対象にやる気を持てたりするでしょうか?私はむしろ「勉強にやる気がない状態」がデフォルトのような気がするのです。つまり、やる気がないのが当たり前なんです。それがむしろ自然。逆にそんなに早くから勉強にやる気になれていることの方が凄いことなんであって、「やる気のない子」というレッテルの貼り方は、実はおかしいんです。そしてこの「おかしさ」は、おそらく「勉強」と「教育」の混同が原因で生じていると考えられます


とすれば、今まで「やる気のない子」と呼んでいた子のほとんどは、実は普通の子だったのだと認識が変わります。「そりゃそうよね、こんな面白くもないこと、やる意味も分からないのに、やりたくないよね」と共感できるようになるのです。逆に勉強に抵抗なく付き合えている子たちが「おお、この子たち、実はめちゃくちゃ凄いんじゃん!」と感じられるようになり、俄然その子たちに興味が湧くかも知れません。「どうしてそんなに勉強に頑張れるの?」と。

「やる気のない子」の救い方

実は私のブレイクスルーはここにあったんです。やる気がないことの方が普通。ここに気付くことで私の現状認識はガラッと変わりました。


そして学校の本来の目的は「教育」を施すことであって「勉強」させることではない。この前提に立ち返った時、じゃあ「教育」とは何か、「勉強」とは何かという定義の問題にぶち当たりました。この線引きが非常に重要だったわけです。


かの有名な物理学者アルバート・アインシュタイン博士はこう言っています。

「教わったことを全て忘れてしまった時、それでもなお残っているもの。それが教育である」


著名な人物の思想、発言の全てが常に正しいとは言いませんが、少なくてもこの教育の定義は注目に値します。これこそが「教育」と「勉強」の線引きに活きる認識です。


この認識に立てば、授業に前向きに参加してくれない生徒や、宿題もせずに勉強をろくにしない生徒を「やる気のない生徒」だと評して区分けしていたことの”誤解”に気付かれることでしょう。学校の教師が彼らに施すべきは「教育」です。必ずしも「勉強」である必要はない。学習指導要領はありますし、学年ごとの習得内容はある程度決められているし、教師として子どもたちにそれらを習得させる責任があることも理解した上で、それでも「教育者」とは「教育を施す者のことである」と私は言いたい。「勉強を押し付けて人格を壊す者のことではない」と。彼らが勉強に対してやる気を出せなかったのは、まだ勉強というものの価値もそれをする意味も目的も分からないからであって、それは至極当然のことなんです。むしろそれらを一緒に模索していくこと、それらを模索する方法を教えること、そうやって無理してやりたくもない勉強に付き合わずとも、今はじっくり模索に時間を掛けて良い時期でもあるのだということを理解させることが、教育者が諭すべきことなのではないでしょうか。


理想論でしょうか?私はそうは思いません。というか、理想論にも2種類ありますから、もう片方の「純粋な理想論」でなけれえばいいと思っています。私はそういうフワフワした概念論は確かに嫌いです。私はあくまでも「現実的理想論」として語っているつもりです。しっかり地に足がついた理想論でなければ追う意味がない。私は理想論を、あくまでも現実の問題を解決するためのツールとして使いたいので、現実的でない「純粋な理想論」は好まないのです。ですから私の行動、仕事の主軸は「現実的理想論」にあります。


さて、彼らを「勉強」という狭い括りから評価せず、「教育的見地」から捉え、一人の人間として尊重する。同じ土俵に立って、その感覚、感情を共有してもらって、一緒に考える。勿論、相手が嫌がれば距離を取ってあげればいい、でもそれでも気にかけてあげていればいい。そして何かあった時に「あ、この先生はちゃんと話を聞いてくれる人だ」と思ってもらえる存在になっていればいい。それは決して「放っておいた」わけではなく、その子のためにやった教育だと思うんです。


私の場合は、もうちょっと話をしようとしたり、勉強以外の何に興味関心があるのかを知りたいと伝えたり、実際に「勉強なんかいいから、それもっとやってみたら?」と背中を押したりすると思います。というか、そうして来ました。誰だって、自分が好きなものを認めてもらえるのは嬉しいはずだからです。その方が彼らの目は明らかに輝きます。肩の荷が降りて、その好きなもののためにより一層心も身体も頭も使うようになりますから、彼らは勉強とは違う角度から学力を伸ばしていくことができます(そう、この「得点力」と「学力」の違いも重要だったりします!)。そして、もしかしたら途中で「あ、なんかやっぱり勉強って大事なのかも」ってことに気付くことがあるかも知れませんし、自然と勉強という分野とリンクしてきて、気付いたら学習指導要領超えてた、みたいなことがあるかも知れません。でもそれが「学び」なのです(そう、実は「勉強」と「学び」という言葉も別の概念です、、、)。


勉強とはそもそも手段であって目的ではありません。学力を伸ばすためには勉強以外にもいくらでも手段があるのです。一方で、国には受験制度がありますから、彼らは成績を上げたり合格するために勉強する必要性に駆られています。自分のためではなく、圧力によって勉強させられているのです。だから成績や合格という勉強そのものが目的になってしまう。そんな風に、本来手段に過ぎなかった勉強が目的化しがちな状況では、どう努力して良いかも見えにくいものです(努力とは何か、という定義についても本当は語りたい!)。ましてやまだ経験も浅く、これから勉強をどうこうしていきたい子どもたちからすれば、目の前のこれをどう扱っていいかは学校で学ぶつもりでいたはず。しかしそれを学校が上手く教えられていないがために、結局子どもたちはご家庭の教育環境の中で養われた素質で自ら現実を切り拓いていくしかない。だから経済格差が教育格差に直結している今の問題が生じているわけです。


私は”勉強を教える”仕事をしていると言いましたが、その意味は何も教科指導をしているとか、生徒の分からない問題に対する質疑応答をしているといった、そういうことではありません。文字通り「勉強とは何か」を教えているのです。


子どもたちは勉強というものを理解していません。なのに”勉強をしないといけない”んです。理解していないうちに競争に巻き込まれて立ち止まれなくなり、とにかく成績を上げる、志望校を選んで合格する、文部科学省が決めた改革路線に付き合ってあれこれ教え込まれるという学校生活に振り回されます。でも学校制度とは別に受験制度がありますから、受験勉強を常に意識して過ごすことになります。ここで学校と受験との板挟みになるわけです。でも本当は、自分が今相当な時間を費やしているこの勉強というものの理屈を理解することが先決なんです。じゃないとどう努力すればいいのかも分かりません。何のためにこの勉強をしているのかも分からないでしょう。


ただ、この「勉強を理解する」というのは一朝一夕ではできないことです。先ほど申し上げたように、勉強とは何か、教育とは何か、努力とは何か、やる気とは何か、学力とは何か、学校とは何か、社会とは何か、学校とはどうして生まれ、受験制度のカラクリはどうなっていて、教育改革がなぜ必要で、人間の構造はどうなっているから、変化し続ける現実に対してこういう風に考えないといけないんだよ、ということは、1時間2時間では教えきれないからです。


でも私はこれをしたい。勉強というものの正体を知ってほしい。正体さえ分かれば戦い方が分かるからです。何をすればどういう結果が見込めるという筋道が分かりさえすれば、何をするべきで何をしないべきかが分かります。そうやって自分で自分の目標のための努力を設計できるようになれば、子どもたちは自らの人生を自律的に生きていけるようになるのです。勉強はそのための手段の1つに過ぎません。でも今や勉強は子どもたちにとって避けて通るにはあまりに大きな弊害となっている。であれば、勉強を手段として問題解決能力を養っていくしかありません。だからこそ勉強を理解しないといけないんです。この問題を乗り越えるために。


お話ししたいことはまだまだ半分も語れていませんが(!?)、今回のテーマであった「やる気のない子」問題については、「やる気」が得意分野でしたので色々なことをちょっと真面目に語ってみました^ ^ 分かりづらいことも多々あるかと思いますが、今日お話ししたことが何かのお役に立てれば幸いです。ご通読ありがとうございました。

 

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