熊本 塾|ローカル日本史[宇土編]を勉強してみました

こんにちは。熊本の勉強戦略コンサルティング指導、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。

 

 

私は熊本で塾を開いているのですが、実は今住んでいるのは宇土だったりします。先日その宇土の情報誌を読んでいて気になるフレーズが出てきました。それは「初代宇土藩主 細川行孝(ゆきたか)」というものです。そしてその歴史は「1646年〜」ということになっていました。

 

 

聞いたことがあるかも知れませんが、宇土には「行長(ゆきなが)しゃん」というゆるキャラがいます。小西行長に由来したキャラクターなのですが、その宇土城主小西行長は豊臣秀吉の部下なので、豊臣秀吉が天下統一を果たした1588年をベースに考えたとしても、時代的には初代宇土藩主 細川行孝が就任するよりも前になるはずです。

 

 

「行長しゃん、どういうこと?」ということで、今回はかなりローカル日本史になりますが、宇土の歴史(少し熊本の歴史も)を調べたものをこちらで共有していきたいと思います。なお、日本史勉強するということが、本来こうあるべきだっていうことの訴えも含ませていただくので、その点も併せてお楽しみいただけたら幸いです。

 

 

[宇土のローカル日本史]宇土の歴史は意外と古い!?

さて、宇土の歴史を調べてみると、かなり古い時代から始まっていることが分かりました。それも日本史の教科書に100%登場するようなビッグな人物も絡んでいます。

 

 

宇土にはもうその姿はありませんが、宇土古城というものがかつてあったそうです。築城はなんと1048年。今から1000年近く前のことになります。その時築城を命じた人物が誰だったのか。なんと藤原頼通(よりみち)なのです!

 

 

藤原頼通とは平安時代の貴族で、父・藤原道長(みちなが)と共に栄華を極めたトップオブ貴族です。道長が詠んだ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」という詩はあまりにも有名。その彼が仰ぎ見た月から1000年後の満月というのが、去年、2018年11月22日深夜に昇ると話題になりました。

 

 

そんな超ビッグな藤原頼通が建てた城も、1588年には廃城となります。そう、豊臣秀吉が天下統一を果たしたからです。この際に新たに宇土城が築城という運びとなり、その城主として抜擢されたのが行長しゃんこと小西行長なのです。

 

しかし秀吉が亡くなりその後の1600年の関ヶ原の戦いで豊臣側の西軍は大敗。秀吉の部下だった行長も死罪となり、城主を失った宇土城は1604年に廃城となったのです。

 

 

宇土城の歴史が熊本の歴史と交錯する

ここで登場するのが加藤清正(きよまさ)です。そう、熊本で知らない人はいない、肥後熊本藩初代藩主であり熊本城主。実は加藤清正の前に佐々成政が秀吉の命で肥後国の鎮圧を仰せつかっていましたが、上手く国がまとめられず肥後国人一揆の勃発を受けて加藤清正に交代させられました。

 

 

元々秀吉の子飼いであり、同郷ということで可愛がられていた清正ですが、秀吉の死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは実は東軍側の勢力にカウントされています。ただ実際には関ヶ原の戦いには自国の肥後にいたため参戦していません。動いたのはそのあと。小西行長の宇土城をはじめ立花宗茂(たちばなむねしげ)の柳川城を攻略し、九州の西軍勢力を撃破することで、戦後52万石の大名になりました。

 

 

その加藤清正が自身の隠れ家として宇土城を使い始めたわけです。もうその時には廃城になっていましたので、そのまま潰してしまうのももったいないから、肥後国統治のための拠点に加えたという感じです。

 

 

ただ、そんな清正も1611年に亡くなり、その子加藤忠広も徳川家光の謀反を企んだとして破却されてからは、完全に廃墟とさせられてしまいました。清正のように拠点としてこっそり使われることを嫌った家光は、念入りに「使っちゃダメだよ」という命令まで出して荒廃させたほどです。

 

 

ここには色々な説があるのですが、元々加藤清正は豊臣秀吉のお気に入りの一人ですから、徳川家にとっては元々敵の大名。何かしらの理由をつけて取り潰ししたかったのでは?とも言われています。

 

 

こうして一時放置された宇土でしたが、徳川幕府は1632年に肥後国熊本藩主に細川忠興(ただおき)を据えました。初代の宇土藩主細川行孝(ゆきたか)は、この細川忠興の四男立孝(たつたか)の子で、早世した父が継げなかった領地を分け与えられる形で据えられたことになります。

 

 

細川忠興という男

細川忠興は元々加藤清正と共に秀吉の子飼いとしてついていました。彼は1598年に秀吉が死去した後、加藤清正らと共に石田三成(みつなり、秀吉の養子で西軍の大将)を襲撃しており、そういった背景をきっかけに徳川家康からスカウトを受け、関ヶ原の戦いの前にはいち早く東軍へ寝返って参戦した武将です。

 

 

彼は元々1602年、関ヶ原の戦い後に小倉城を九州の要とすべく大規模改修に取り掛かります。そのまま初代小倉藩主を務めることとなった忠興ですが、1620年には病気のため三男の忠利に家督を譲り隠居しています。ちなみに次男の忠秋(ただあき)は途中で出家した上に関ヶ原の戦いでは豊臣側に就くという行動で、最終的に切腹させられています。

 

 

1632年にはその忠利が肥後熊本54万石の領主となった折には、自身は八代城に入り、忠利の弟で四男の立孝に独立して欲しいと願っていたようですが、1645年に立孝が早世し、かつ自身も同年に亡くなったことで、その願いは1946年に立孝の子・行孝に受け継がれたということです。

 

 

ちなみに初代細川忠興の正室は細川ガラシャです。細川ガラシャの元の名はなんと明智玉(たま)。そう、明智光秀の娘なのです!明智光秀と言えば、織田信長を謀反で自刃に追いやった張本人で、豊臣秀吉にとっては主人の仇で宿敵でした。そういった意味では豊臣家を裏切りやすい立ち位置にいたのかもしれません。そして石田三成との仲違いのエネルギーを関ヶ原でぶつけさせた徳川家康もなかなかだと言えます。

 

 

前田利家と浅井長政の血筋

宇土の歴史に少なからず関わってくる二人の武将を挙げてみます。

 

 

一人は織田信長に仕え、豊臣秀吉の友で、徳川家康に男の中の男と評させた武将・前田利家です。彼には多くの子がいるのですが、その中でも細川忠興の嫡男である細川忠隆(ただたか)に嫁いだのが前田利家の七女・千世(ちよ)でした。ちなみに忠隆は長男であるにも関わらず忠興に廃嫡(縁を切るようなもの)されているため、忠興の跡を継いだのが三男の忠利ということになります。

 

 

さらに言えば、千世の姉で利家の四女・豪姫は豊臣秀吉の養子となった後、宇喜多氏家(うじいえ)の正室となりましたが、1600年に徳川家康が不在につけ入り石田三成が居城を攻めた折、妹・千世に逃げるように指示。そして彼女が前田家まで逃げたことで夫・忠隆が責められることとなり、千世とは離縁したくない忠隆は廃嫡覚悟で父・忠興に抵抗したと見られます。結果本当に勘当されてしまいましたが、男ですね。

 

 

もう一人の武将・浅井長政は織田信長の義弟にあたる人物です。信長の妹である市(いち)が嫁いだ武将であり、その後信長を裏切って朝倉義景(よしかげ)と組み、最終的には滅ぼされてしまいますが、その娘たち茶々、初、江(ごう)はそれぞれがそれぞれに数奇な運命を辿ります。

 

 

特に長女の茶々は、その後豊臣秀吉の側室となり、後継となる秀頼を産むことになります。秀吉は正室・寧々(ねね)との間には子供ができなかったようです。そして三女の江は家康の子・徳川秀忠(ひでただ)の正室となり、三代将軍家光を産むことになります。

 

 

日本史って本当に面白いですね。宇土の歴史に熊本の歴史を交錯させ、最終的にはその前後の全国史に連ねて見ました。学校の授業でいやいや勉強させられるよりも、自分が気になった歴史から学びに入れるのが一番頭に残りますね。何かの参考になれば幸いです。

 

 

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