承認欲求の捨て方「努力は人の為にするものではない」と言えるこれだけの理由|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。

 

 

今日は承認欲求を捨てましょう、という話をします。これを勉強に当てはめて考えてみると、人のために努力しているわけではないでしょ?ということです。しかし多くの中高生は誰かの為に勉強しています。これが大人になってくると完全に自分のためにっていうのが見えやすくなってくるのですが、まだ学生のうちは状況も状況なので見えにくくなります。それがポジティブな意味でもネガティブな意味でも起こりうるので心配です。8割はネガティブな意味ですが^ ^;

 

 

では承認欲求を捨てろというのはどういうことなのか、人のために勉強するようになってしまう原因はどこにあるのか。その点を一緒に考えていきましょう。

 

 

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中高生の8割は人のために勉強している

これは私自身もそうだったので声を大にして言えます。中高生の8割(人のために勉強していると言える層)の、そのうちのさらに8割は親のため、教師のために無理して勉強しているネガティブな層です。それはそうですよね。何も分からないうちから勉強という課題をさせられ始めるわけですから、何のためかも分からないし、誰のためかも分からない。嫌な思いだけが先行して勉強が嫌になって、それでも逃げられないから結局「周りがうるさいから勉強するしかない」となる。これが8割の子どもたちに起こる現象です。

 

 

これがネガティブな意味だとすると、ポジティブな意味では何か。それは「褒められるから勉強する」です。親に褒められる、教師に褒められる、表彰される、皆んなの前に成績が貼り出される、塾などで優遇される。こういった「認められる」ことに対する依存の結果、勉強するというのがポジティブな意味での「人のための勉強」です。

 

 

「頑張っている子を褒めて何が悪い」「努力の成果を皆んなが認めることは悪いことではないだろう」そうお考えの方もいらっしゃると思います。もちろん、頑張ることが悪いとか、努力の成果を皆んなが認めること自体を悪いと言いたいのではありません。承認欲求は人間に潜在的に備わっているものだと、マズローが五段階欲求として説明しています。それを否定するつもりはありません(少なくてもマズローの五段階欲求の考え方は妥当性が高いと思っています。ただし、あくまでも医学的かつ脳科学的な結論ではないとも思います。正しいかどうかということよりも、妥当性の問題として捉えています)。ただ問題は、勉強するのは本来自分の人生にとって利があるからであって、褒められるとか認められるという評価軸は、それとは関係のないものです。ここに危険性が孕んでいると言いたいのです。

 

 

承認欲求ベースの勉強がもたらす危険性

8割のさらに8割ですから、ネガティブな意味で人のために勉強していると言えるのは全体の64%で、褒められたい、認められたいというポジティブな層は8割の2割なので16%と考えます。ほとんどの場合、前者の64%の子どもたちは自覚症状があるでしょう。嫌だ、やりたくない、面倒臭い、キツイ、辛い。これらの負の感情は無視できるものではないからです。

 

 

勉強しないと親がうるさい、宿題をやっていかなければ学校の教師や塾の講師に怒られる、だから仕方ないからやる。これは良くないことのように見えるかも知れませんが、健全です。自然だからです。そして自覚がある分、構図が明確で分かりやすい。

 

 

しかし一方で、後者の16%については無自覚でそうなっていることがあります。頑張ったら褒められる、成績がよければ認められる、だから頑張る。これは実は危険なことです。理由は先ほども申し上げたように「勉強は本来自分のためにするものなのに、その勉強する理由が他者になっているから」です。そして周囲の期待を裏切ってはいけないという、自分を縛る原因にもなります。軌道修正したくなった時に、最も苦しむことになるパターンです。

 

 

認められるから勉強する、認められたいから勉強するということには、他者依存の要素が含まれています。もし他者から認められるという”報酬”がなければ、その子は頑張る目的を見失ってしまうのです。誰かに認められることじゃないと頑張らない。これでは身動きが取れなくなります。常にだれかがお子さまのことを見て、褒め、モチベーションをキープし続けなければなりません。

 

 

褒められることに慣れ、認められることに慣れていけば、それが失われた時にその子のモチベーションは下がることになるでしょう。さらに悪くなれば、自己評価も犠牲になります。私は頑張っても認められない人間なのだ、と間違った解釈で自己認識を進めてしまうかも知れません。

 

 

勉強に限った話ではありませんが、努力は人のためにするものではないということ、そして承認欲求ベースで努力をすることに無自覚になることの危険性を、少しでも良いので記憶に残していただけたら幸いです。

 

 

承認欲求の捨て方

確かに難しいことは多々あります。そもそも「人のために」と「自分のために」ということの線引きが曖昧に感じます。

 

 

医者になって人を救いたいという思いは、人のためなのか自分のためなのか。弁護士になって困っている人を救いたいというのは、人のためなのか自分のためなのか。起業家になって世の中を良くしたいと思うのは、人のためなのか自分のためなのか。

 

 

基本的には全て「自分のため」です。人の命を救える自分になりたいだけですし、困っている人の力になれる存在になりたいだけですし、世の中をよくできる自分になりたいだけです。人のためではありません。自分のためです。ただ、自分のためにやったことが、結果的に人のためにもなれてしまうというだけの話です。ここを切り分ける必要があります。

 

 

人に認められたいという発想になっている人は、潜在的に何かを我慢しながら生きています。自分らしく振舞うことよりも、周囲の人がどう反応するかを気にして生きている。勿論、自分の振る舞いをTPOに合わせてコントロールするのが公共の社会で共存生活を送る私たちのマナーであることも事実です。問題は、そのマナーの部分と、自分の生き方の部分の線引きができていないということ。そしてマナーを守るという発想は承認欲求とは別の発想です。

 

 

ですからまずは、自分は自分のために努力するのだということをしっかり認識するところから始めましょう。自分の人生は自分でどうにかするのだと考えるのです。子どもたちは親のために勉強するわけではありません。当然教師のためでも講師のためでもない。子どもたちは子どもたち自身の人生のために努力をするのです。親は勉強を頑張る我が子の姿をみてホッとし、勉強を頑張れないお子さまの姿をみてヤキモキします。しかしその判断基準を捨てねばなりません。お子さまの評価基準が勉強になられているなら、その評価軸が「主体的になれない現状」を生み出している原因です。

 

 

そして、将来をよりよくすることに関して勉強が絶対の指標ではないのです。勉強の先に将来を見るのではなく、将来を通して勉強を見るのです。将来のために勉強がどう活きる可能性があるのか、勉強をどう扱えば将来のためになるのか。その発想で物事を観察していけば、”常識”の向こう側を見通すことができるようになります。

 

 

「人のため」をやめれば、「自分のため」を考えられる余地が生まれます。無自覚であっても承認欲求に飲まれたままでは、見えない何かに縛られた感覚から抜け出すことはできないでしょう。承認欲求自体は完全に消し去ることはできないにしても、そこをベースに考えることさえやめれば、新しい発想が入ってきます。そこから改めて努力の仕方を組み直しましょう。

 

 

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