熊本の塾長の日本史の授業|古代史最大のミステリー、現代天皇家に連なる継体天皇の謎に迫る!|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー
こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。
やっぱり私、古代史がどうも好きみたいです。ワクワクが止まりません(笑)今回の謎は現代天皇家の直接の祖とされている第26代継体天皇についてです。古代史最大の謎についに関裕二が迫る!という感じですね。日本史の中でも、今まさに話題の一つされる天皇家の万世一系の正否。王朝交代説で有名なこの継体天皇なる人物は、ここでどうやら天皇家の血筋はリセットされているらしいとささやきます。ではその真相は!?
熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー代表である私も、随分と関裕二さんの書籍を読ませていただいて、そのどれもが少しずつ有機的につながってきてパズルが完成に向かっている感覚があります。もちろん一つの仮説なのですが、関裕二ワールドの全貌が見えた時、私の中の歴史認識も一皮剥けることになりそうです。今回の動画授業も是非お楽しみ下さい^ ^
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熊本の塾長の日本史の授業:天皇家は一度リセットされた!?
天皇家は万世一系である。神武天皇即位から2600年続く由緒正しき国、日本。しかし実際には、それが神話なのか歴史なのかが不明瞭なものも多々あります。特に神武天皇から欠史八代を含む9人の天皇の存在は明らかにされていません。存在が初めて確認される天皇と言えば第10代の崇神天皇です。
さらにこの崇神天皇は、四人の将軍を各地に派遣し全国を平定した初めての天皇とされている人物です。そこで関裕二さんは、どうやらこの崇神天皇が本当は初代の天皇で、彼の功績を何人かに分けて登場人物を増やし、歴史を古く見せる創作を行なったのではないかと疑います。『日本書紀』はそうして、同じ歴史を何度も別の人物で繰り返し語らせることで引き伸ばしたのだ、と。
例えば第15代応神天皇の即位についても同様です。応神天皇がヤマトにやってきてトップに君臨する流れは、神武東征と動き方がほとんど同じです。ましてや応神天皇もその存在が謎に包まれている人物ですから、『日本書紀』がどこまで信用できる歴史を語っているのか判断が難しいところなのだそうです。
そして今回ご紹介する継体天皇は、まさにこの謎に包まれた応神天皇の5世の孫ということで、田舎の越からわざわざ連れて来られた異色の天皇となります。なぜ彼は応神天皇の血筋とされたのか、なぜ世俗に塗れた田舎貴族がヤマトに連れて来られなければならなかったのか。謎が謎を呼ぶというわけです。
熊本の塾長の日本史の授業:日本版易姓革命
一説には、継体天皇即位は日本版の易姓革命なのではないかという指摘があります。先代武烈天皇の横暴さを際立たせて、世が乱れたために正統な王を連れてきて運気の流れを変えたのだというのです。
そもそも易姓革命とは中国の思想で、天は徳の高い者にこの世を統べさせるから、もし不徳の者が現れた場合には徳のある者に代わってもらわなければならない、という考え方です。その点でいくと先代の第25代武烈天皇があまりにも残酷な天皇でしたから、その世を平安たらしめるために越から継体天皇をお迎えしたのだ、という書き方が『日本書紀』ではされていると言います。
しかしです。そもそも『日本書紀』は藤原不比等の意思が大いに反映され、創作や改竄のオンパレードになっている書物です。であるならば、継体天皇の即位を正統なものにするためにあえて武烈天皇を悪者に仕立て上げて易姓革命を装ったとも考えられる。その証拠に武烈天皇の残酷な行為はどうも中国の書物を参考に作られたストーリーのようで、酷似した文章が中国の書物にあったのだそうです。漢風諡号も後から付けられるものですから、「継体」とは要するに「体制を継ぐ者」という意味でしょう。とすれば、途絶えかけていた天皇家の血筋を「繋がっているように繕うために」体制を継ぐ者として連れてきたのが、この継体天皇だったのではないか、というのです。
すると次に気になるのは、そうやって連れてきた継体天皇の血筋の祖を「応神天皇」に置いたのは一体なぜなのか。
武烈天皇は横暴な人間で、自分以外の正統な即位候補者を次々と殺し、自身にも子供がいなかったというところから、天皇家の血筋断絶の危機を招いたわけですが、そんな折に連れて来られた継体天皇は応神天皇の5世の孫ということで白羽の矢が立ったとされています。しかしそこまで戻らなくても、もっと他にも天皇の血を引く人間は残っていたはずなのです。にも関わらず、当時はまだ”外”であったともされる東の国からわざわざ世俗にまみれた田舎貴族を連れて来なければならなかった理由は一体何だったのでしょうか。
熊本の塾長の日本史の授業:応神天皇の謎
実は応神天皇自身がまた謎の多い人物です。生い立ちはそれこそ第14代仲哀天皇と神功皇后の子とされてはいますが、関裕二さんからすると、それは本当か?と疑わしいところがあるそう。なぜなら応神天皇の父親は別の人物ではないのか?という疑いがあるからです。
実は第14代仲哀天皇は変死を遂げています。神のお告げを「私はそんなものは信じない」と突っぱねた結果、その直後に神から祟られて死んでしまうのです。その後神功皇后は未亡人でありながらも仲哀天皇が変死したその晩に住吉大神(すみのえのおおかみ)と男女の秘事に至っている。ということは、応神天皇の父親とはこの住吉大神ではないのか。
さらに別の視点から見ると、その住吉大社の伝承を抜きにすると、史実的には仲哀天皇が亡くなった時に神功皇后と行動を共にしていたのは武内宿禰(たけのうちのすくね)であり、彼が応神天皇の父親である可能性も考えられます。そして何を隠そう彼は蘇我氏の祖と言われている人物なのです。継体天皇即位に合わせて蘇我氏が台頭してくるのは、そういう血統の繋がりがあるからなのでしょうか。
関裕二さんの見解としては、『日本書紀』や『古事記』という書物はどうやら同じ出来事を何度も人物を変えて描くスパイラル構造になっているとのこと。その証拠に神武東征と応神天皇即位の経緯とヤマトに至るまでの道程が面白いほど似通っていると言うのです。ということは、応神天皇即位は神武天皇即位と同じ出来事を語っていることになり、そのことが母である神功皇后が、邪馬台国の女王卑弥呼の宗女という立場から卑弥呼亡き後の女王を継いだ形で王位を奪ったトヨであり、応神天皇の即位はヤマト建国に当たるという仮説と繋がってくるわけです。
であれば、天皇家の血筋が断絶の危機を迎えた時、そのヤマトの体制を継ぐ者はヤマト建国の祖の血を引いた人物である必要がある。だから『日本書紀』はわざわざ継体天皇を応神天皇の5世の孫という立場に置いたのだと関裕二さんは言います。
では、本当の継体天皇とは一体何者だったのか。問題はここです。。。
ということで、今回は古代史ミステリー「継体天皇の謎」ということで日本史の授業を行ってみました。何かの参考になれば幸いです。今回も御通読ありがとうございました^ ^
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