熊本県山鹿市の日輪寺に行って来ました!様々な日本史に触れられる場所の魅力|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

山鹿市の日輪寺と巨大な弘法大師像

こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。


今回私が行ってきたのは山鹿市にある日輪寺というお寺です。ネットで検索していたところ、後ろに見えている巨大な弘法大師様が気になり、息子たちを連れて行ってきました。渋滞に引っかかって片道2時間(汗)でも事前に調べてわかったのは、この寺が日本史が詰め込まれた不思議なお寺であるということです。今回はこの1200年ほどの歴史を持つ山鹿市の日輪寺の秘めた日本史をいくつかご紹介します。


山鹿市の日輪寺と日本史

なんだか『鬼滅の刃』っぽいネーミングの日輪寺ですが、その歴史は古く、なんと900年代に建立されたとのこと。794年から始まり1192年まで続く平安時代の中期入ったくらいの時期ですね。もともとは禅寺として建立されましたが、主役はなんと言ってもこの巨大な弘法大師様です。


弘法大師とは空海の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後おくられる名前)で、空海とは最澄とともに鎌倉仏教を牽引したツートップ。真言宗の開祖として有名ですよね。


禅自体はインドの発祥です。約2500年前、元々王子として生まれた達磨が始祖となり、その後6世紀頃に中国に入ってきました。日本で禅宗が確立されたのは1300年代とのことですから、鎌倉時代ですね。日輪寺という名前もそうですが、禅もまた『鬼滅の刃』に関係しています。ロゴの周囲に描かれているかすれた円、竈門家に受け継がれるヒノカミ神楽の12の技が円となって循環するその「円」が禅のシンボルだったりします。


山鹿市は日輪寺に到着すると、正面に早速登場する小さな古い建物がありますが、その2階にひっそりと置かれた鐘楼は是非ご覧になって下さい。室町時代から残るその鐘楼は正に800年の歴史を刻んでいます。私たち人間には途方もない過去のようですが、時の流れからしたら800年もあっという間なのかも知れませんね。そしてその御堂の横に佇む遺髪塔は、なんと『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士、大石蔵之介ら17名の遺髪が祀ってあります。なぜ熊本の山鹿市に!?と思われるかも知れませんが、そこにも理由があるのです。


さらには、明治時代初期にあたる1877年に起きた西南戦争では北の拠点として使用された場所でもあり、現代ではつつじ公園とされるその場所に、西南戦争で命を賭けた戦没者方の共同墓地が置かれています。


山鹿市にある日輪寺はこうして平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代、そして明治時代に触れられる日本史の詰まったお寺さんだったのです。


熊本県山鹿市になぜ赤穂浪士の遺髪が!?

まずは『忠臣蔵』として現代でも何度も語られる、江戸城松の廊下で起きたあの事件を振り返らなければなりません。


時は1701年。天下分け目の大戦と呼ばれた関ヶ原の戦いが終わって江戸時代100年を迎えた頃の時代。江戸城内松の廊下において、播州(ばんしゅう、播磨国(はりまのくに)、現代の兵庫県南部)赤穂藩の藩主だった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけたとして、浅野内匠頭が切腹に処された事件が起きました。実はこの時浅野内匠頭は目上である吉良上野介の接待役を命じられていましたが、そんな立場で、かつ江戸城という場所で上司を斬りつけたという前代未聞の事件を起こしたことで大きく咎められ、藩主には不名誉な、屋敷の庭での切腹を命じられたのです。


実はこの時、なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけたのか、その詳細は分かっていません。大きな事件だったはずですが資料が残っておらず推測するしかないというのが現状です。ちょっとここが気になるので、大河ドラマではどのように描かれたのか1999年(平成11年)に放送された第38作『元禄繚乱』でも観て復習してみようと思います(笑)


ただ、この時事件の原因となった理由、そして藩主・浅野長矩(ながのり)が多くの取調べもなく即日切腹させられたことに家臣たちが猛反発。筆頭家老であった大石内蔵助ら47名が立ち上がり亡君の無念を晴らさんと吉良邸に押し入り、吉良上野介を打ち取った「赤穂事件」が、今では『忠臣蔵』として幾度もドラマや舞台、歌舞伎等で描かれています。


その後討ち入りを果たした47名(うち1名は姿をくらます)は毛利家、水野家、細川家、松平家それぞれの江戸屋敷に預かりとなり、そのうちの細川家が正に熊本藩細川家であり、その熊本藩江戸屋敷に預かりとなったのが大石内蔵助はじめ17名の赤穂浪士たちだったのです。


そんな折、堀内伝右衛門(ほりうちでんえもん)は彼らに深く共感し、浪士切腹の後は細川の殿様細川綱利公に懇願し、彼らの遺髪を貰い受けて自身の菩提寺である日輪寺に祀ったとのこと。だから江戸から遠く離れた熊本は山鹿市の日輪寺に、彼らの遺髪があるんですね。


熊本の歴史も刻まれています!

私は勉強不足で行ったその時には分からなかったことですが、本堂の前、遺髪塔の隣には菊池氏にまつわる供養塔が建てられていました。菊池氏とは?とその時にはピンと来なかったのですが、戦国時代には熊本のある辺りは菊池氏、阿蘇氏、相良氏の三者が拮抗し治められていた土地だったのです。ちなみに相良氏と言えば河童伝説で有名な相良市で、そこのちょっと手前にある白滝公園にも先日行ってきました。なんだか最近の自身の行動が繋がっているようで縁を感じます。


その菊池氏はその後阿蘇氏に敗れ吸収、さらに大分県(当時豊後国)の大友氏に敗れてしまいます。相良氏は時代的には鉄砲伝来後、南は鹿児島(薩摩)の島津軍の近代兵器に敗れて、その後その島津軍もまた九州平定寸前で大友氏の要請でやってきた豊臣秀吉軍に敗退。秀吉の命で佐々成政がやってきますが上手くいかず、その後加藤清正と小西行長の二分統治によって治められることになります。しかしそれも長く続かず、関ヶ原の合戦を迎えた後は西軍についた小西行長は敗将となり斬首。改易の後に細川氏がこの地を治めることになった、という経緯です。


ちなみに小西行長は元・宇土城主であり、正に私が今拠点を置いている宇土の「行長しゃん」で有名(笑)全部繋がりますね。


さらにこの後調べて「マジか」と思ったのは、日輪寺に刻まれた菊池武時という武将、菊池家第12代当主について。彼の晩年は元寇の後に鎮西探題が設置され、北条氏による支配が強化されており、御家人達の不満が募っていた時代です。封建制度が崩れて鎌倉幕府への不満がMAXの時期に、九州においてこの鎮西探題に攻め入った先駆的な人物でした。残念ながら彼の行動は自滅的な結果となり、一族200名あまりを道連れに処罰されるという凄惨な最後でしたが、この出来事が九州における倒幕運動の契機となり、この2ヶ月後に鎌倉幕府は滅亡。さらにはこの3日後、当初菊池武時の共闘依頼を断ったはずの少弐貞経(しょうにさだつね)、大友貞宗(さだむね)ら九州の武士達が逆に倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼすことになるという。


一族全てを巻き込んで滅んだ彼の行動が、結果的には歴史を動かしたというのも、歴史としては壮大なスケールで面白いのですが、リアルとして考えると複雑なものがあります。こうして歴史に名を残していることだけも素晴らしいのでしょうが、昔は本当に色々なことが起きていたのだなぁと感じ入りました。


ということで今回は、山鹿市の日輪寺に行ってきたことで私が考えたり調べたことを共有してみました。何かの参考になれば幸いです^ ^


 

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