【日本史】源氏と平家の誕生!武家社会はこうして興った!高校日本史のさらに向こうへ!|熊本県の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。

 

 

今回は久しぶりの本の紹介動画です。中学生の歴史の教科書から載っているので、おそらく源氏と平氏を知らない方はいないと思うのですが、でも私たちが認識しているよりも遥かに深いところに、武家社会興りの理由がありました。一体当時の日本で何が起きたのか!?

 

 

熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミーでは、この関裕二先生の歴史を紐解くときの考え方や姿勢に共感し、共有させていただいています。高校日本史で習う内容よりもさらに深いところまで掘り下げる内容になりますが、誰もが知っているようで知らなかった日本史の真相を是非一緒に体感して下さい。それでは関裕二先生の古代史ミステリー解明シリーズ『源氏平家の誕生』を少しご紹介します。

 

 

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源氏と平氏と天皇

源氏と平氏誕生には、当然のごとく天皇という存在への理解が不可欠です。なぜなら源氏と平氏は天皇の末裔だからです。

 

 

源氏と平氏は、第50代桓武天皇の時代に採用された臣籍降下の制度で生まれた氏族です。臣籍降下とは、皇室出身の方(皇族)に身分を離れていただき一般人になっていただくもので、先日の小室圭さんとのご結婚で一般人になられた眞子さんもこの臣籍降下の類となります。その際には姓を与えられることになっているので、桓武天皇の場合にはその二世王(孫の世代)に平姓を、第52代嵯峨天皇の場合にはその一世王(子世代)に源姓を下賜されたことから源氏と平氏が生まれました。

 

 

桓武天皇の時代に始まった制度ですが、平氏は二世王に下賜されることの多い姓であり、源氏は一世王に与えられることが多い姓であることから、より天皇家に血筋が近い源氏の方が家柄が上、という考え方になります(ただし必ずしもそうでない場合もあったので100%の話ではなかったようです)。

 

 

また、源氏や平氏だからと言って全員が武士であったわけではなく、むしろ公家として朝廷に残った方の方が多く、また一言で平氏と言っても桓武平氏をはじめとして4流、源氏については清和源氏など17流もあるので、結構複雑です。

 

 

武烈天皇の時代や聖武天皇の後の時代に後継問題で世が荒れたため、皇室に子が少ないのは危険だということから、皇室では子供を沢山産んでもらえるような環境作りが推奨されましたが、それが時代を経ることでかえって重荷になっていくことになります。皇室で支えなければならない人数が膨大となり、財政を圧迫し始めたからです。そこで臣籍降下制度が生まれ、自立していただくという流れになりました。ここから天皇の末裔としての源氏と平氏が誕生するわけですが、彼らの存在が邪魔で仕方がないと考えていた者がいました。権力支配を狙う藤原氏です。

 

 

源氏と平氏と藤原氏

源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼ばれるほど、今の日本人の7割が正にその4つの氏族の血筋だと言われるほど権力を持った氏族があります。その中で橘姓は、奈良時代の皇族で臣籍降下された橘諸兄(もろえ)から始まる氏族ですが、橘諸兄は血筋を辿ると第23代敏達天皇に行き着くため、ちゃんと天皇の末裔です。つまり源平藤橘のうち、藤原氏だけが天皇の末裔ではないということになります。

 

 

藤原氏がここまで名前を残せた理由は、天皇と外戚関係を築くことで政治的に優勢な立場を占めることができたという、その戦略にあります。政治的に権力を握るのは天皇の母方の実家なので、娘を天皇に嫁がせ、そこで生まれた子が天皇となれば、藤原氏は晴れて天皇家の「ミウチ」となり、実権を握れるというわけです。これは藤原氏だけでなく蘇我氏も、そして平氏の中で特に力を持った平清盛も行った戦略でした。

 

 

つまり天皇にどれだけ近いところで力を振るえるかが権力を握れるかどうかの鍵だったわけで、その点でいくと藤原氏にとって最も邪魔と言える存在が、天皇の末裔である源氏や平氏たちだったわけです。であれば、藤原氏的に源氏や平氏はなるべく朝廷から離しておきたい存在。そこで彼らが武士であるという立場を利用して、東国平定のために派遣するという手法を採ります。朝廷のある京都から遠く離れた地(当時はまだ支配圏の外にあり辺境の地とされていました)を掌握するために現場を指揮する人間が必要で、そこには武力を持った武士たちが派遣されることが理に適っていたからです。

 

 

逆に言えば、源氏や平氏にとっても、朝廷から離れていた方が自由に振る舞えるというメリットがあります。忠誠さえ誓っていれば、東国の地で多少無茶をやっても咎められないのです。だから彼らは派遣された役職での任務を終えても西国に戻ろうとせずに居座り、財と力を蓄えていたと言います。

 

 

そんな中で、天皇家の中の確執と藤原氏たちの権力争い、さらには源平間の勢力争いも一緒になって保元の乱が勃発します。

 

 

源氏と平氏と乱

保元の乱、平治の乱、平清盛の台頭、壇ノ浦、そして鎌倉幕府の成立。この流れは中学の歴史でも習うものです。ただ、事の真相は思っているよりも複雑でした。それこそ、白河法皇が自身の孫(鳥羽上皇)に嫁がせた娘(養女)と密通して子供ができてしまい、そこでできた隠し子をよりによって孫の鳥羽上皇に押し付け、その子が後の天皇(崇徳天皇)となるのですが、これは表上は崇徳天皇は鳥羽上皇の子ということになるものの、要は鳥羽上皇の祖父である白河法皇の子であり、そのことを崇徳天皇自身も知っているという、かなりギクシャクした関係ができているということです。崇徳天皇にとっても鳥羽上皇は本当の親ではないのでそこに愛がない。となると、天皇となった崇徳が邪魔で仕方ない鳥羽上皇は自分の子を即位させたいし、自分の権力を保つためにも崇徳に上皇に上がってもらうわけにはいかない、となって、こういう人間関係のもつれから、保元の乱が起こるわけです。

 

 

また、そこで勝者となった後白河天皇についたはずの平清盛と源義朝が、次に起こる平治の乱を起こしてしまい、結果源義朝が十分な兵を集められなかったことで敗走。裏切りにあって殺され、危ういところで息子・頼朝も斬られるところを伊豆への流罪で済み、それが結果的に源氏が地盤を築いていた伊豆だったことで頼朝が勢力を盛り返して、壇ノ浦に繋がっていくという歴史的な流れがあります。その時には平氏最強の男・平清盛が亡くなっており平家も傾いていた事情もあって、結果源氏の世になるわけですが、このように、天皇家や藤原氏たちの権力争いで振り回される中で、武士というものがどんどん勢力として固まっていき、平清盛で絶頂を迎え、藤原勢力を押しやるほどの権力を手に入れていたことになります。そこにはまた、藤原氏の影響力から距離を取りたい天皇家側の事情もあり、当時の政治の裏側はドロドロしたものであったようです。

 

 

そして、結果的にその”乱れた”状況を鎌倉幕府の立ち上げによってまとめ上げたのが源氏でした。あえて京都から離れた鎌倉で、それも武力を傘に立ち上げたもう一つの権力の要。ここから日本は朝幕体制に入っていくわけですが、では一体なぜ武士は辺境の地で、まだ荒れていたはずの東国で受け入れられたのか。そこには縄文時代から紐解かれる、東国ならではの事情と、そこに暮らす者たちの気質が関係していました。。。。

 

 

ということで、実はあまりに複雑な武士の興りを、壮大なスケールで追いかけまとめ上げた珠玉の1冊を今回少しご紹介してみました。歴史が好きな方、ドラマチックな展開に胸躍らせたい方は是非日本史の転換点をご堪能下さい。何かの参考になれば幸いです。

 

 

 

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