熊本の塾長が知る教育勅語の真実!日本教育の根幹は熊本人が作った!教育勅語が生まれた理由とは!?|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー
こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。
今回は日本教育の原点とも言える教育勅語に関するお話です。明治天皇のお口から発せられる形で公開された日本の教育の根幹的思想は、ある二人の手によって作られました。明治天皇の教育係であり明治天皇の師と呼ばれた元田永孚(もとだながざね)と、実際に草案を手がけた当時の法制局長官井上毅(いのうえこわし)です。
熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー代表として少々恥ずかしいのですが、このお二人が私と同じ熊本人であったと知りビックリした次第です。自分が熊本に生まれ、結果として今熊本に住んでこの本に巡り会ったことが運命のように感じられました。
そこで今回は、日本の教育観の根幹とも言える教育勅語が生まれた経緯を追っていきたいと思います。
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熊本の塾長と教育勅語の歴史的背景
明治維新。それは陰陽両面から語られることの多い日本人における歴史的最大のイベントでした。ちょんまげに刀、着物にお歯黒の日本人が、突然現れた軍艦に空砲を喰らえば軽いトラウマです。宇宙人の来訪のような衝撃だったでしょう。
しかしその衝撃は続きます。開国が決まり、海外が心理的にグッと身近に寄ったあの時代、岩倉具視を特命全権大使とし大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、木戸孝允の4名、随行員など46名、さらに欧米への留学生を含め、総勢100名を超える使節団が1871年に横浜港を出港。さらには長州ファイブ(こちらは開国前の幕末期に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人)、そして各藩のお殿様から資金援助を受けた留学生たちがこぞって西洋に漕ぎ出しました。
彼らの見たものは異次元の世界でした。すでに鉄道が走りエレベーターが人を運ぶ文明があったからです。『進撃の巨人』でメインメンバーたちが初めて壁の外の文明を目の当たりにしたのと同じです。
日本人たちは良くも悪くも開国をきっかけに開眼し、西洋に強い憧れを抱くとともに、早くこれらの時代に追いつかなくてはという思いを強くします。でもその背後には同時に、これまでの日本は遅れていたという自虐史観も生まれてしまいました。こんな日本に誰がした!?伝統、歴史への自虐史観と、西洋はすごい、とんでもないという憧れは、とにかく外からの情報を入れよという、ある種の強迫観念となって日本を席巻していきました。その一番の温床となったのが学校です。
1872年学制発布。しかし現場と言えばまだバラバラの状態で、とにかく英語だ、とにかく西洋の文献だと、それぞれの学校が独自の判断でバラバラの教育を子どもたちに施していく。その様はまるで西洋の植民地のようだとこの本には書いてありました。この状況に危機感を抱いたのが、明治天皇の教育係であった元田永孚です。何か日本の教育観の柱となるものが必要なのではないか、国がバラバラなままでは他国と肩を並べることはできないのではないかと考えるようになったわけです。
熊本の塾長が知った教育勅語草案の裏
「軍人勅諭」を作った当時の文部大臣の山縣有朋は、同じように教育勅諭を作ればいいと考えていましたが、それではダメだと元田は思いました。上から押し付けられたものは反発を生む。ましてや幕府への不平、不満が爆発して起こった明治維新の直後ですから、新政府が同じような感覚を持たれるのは避けたい。これは明治天皇のお口から発せられ周知されるものであるのが望ましい。そう考えていたからです。
しかしそれは同時に、明治天皇に責任を背負わせることにもなりかねません。天皇、皇室の威光を汚すことは絶対に避けなければなりません。その危険性を帯びたプロジェクトでもありました。
実際、明治維新直後の日本人にとって、天皇という存在は決してメジャーなものではありませんでした。政治の中心は常に武家であり幕府が握っていましたので、京都に籠って姿を見せない天皇という存在は、国民の関心の外だったわけです。だからこそ明治維新直後に明治天皇は全国を巡幸され、皆に存在を認識してもらう必要がありました。今とは全く状況が違ったのです。
一方で、じゃあ日本の教育観の根幹を為すであろう教育勅語の草案を誰に委ねるか。最初に白羽の矢が立ったのは、当時東京大学教授であった中村正直でした。サミュエル・スマイルズの『自助論』を日本に持ってきて『西国立志編』として翻訳刊行した人物です。彼の書いた教育勅語の草案は当時法制局長官だった井上毅に渡ります。そこで「これはいかん!」と危機意識を持ったことが、井上毅が教育勅語に関わっていくことになるきっかけだったのです。
何が「いかん」だったのか。それは、中村正直が作った草案がキリスト教精神にまみれたものだったからです。明治天皇のお口からこんな文言を言わせるわけにはいかない。ましてや、教育勅語には決して儒教であろうとキリスト教であろうと仏教であろうと、何の宗教観も感じさせてはいけないと彼は強く感じていました。と同時に、この草案を突っぱねるからには、自分も代替案を提示する責任があるとして、彼は自ら草案を手掛けることになります。
熊本人二人が教育勅語に賭けた思い
井上は、自身の草案をまず正式に提出する前に、明治天皇の最側近であった元田に送ります。同郷であり年上だった元田に先に目を通してもらったのは、当然この草案が正式にたたき台に上がるとしても、彼の目を必ず通ることになるからであり、であれば最初からある程度の完成形まで持っていく方が早いだろうと判断したからでした。
この草案に元田は心から安心したようです。その証拠に、彼は実は自身が書いた草案の案を自ら廃棄しているからです。中村案に「これはいかん」と感じたのは元田も同じであり、だからこそ自分も草案のプランを提示できるようにしておく必要があろうと判断したものの、井上が提示した内容があまりにも精度の高いものだったため、自分の案を持ち出すまでもないと判断し、そのまま井上案を磨き上げる方が良い、それで良いと考えたのです。
元田は井上案を熟読し、何点かの訂正箇所を指摘して返信しました。すると井上はその訂正案を見て全て却下。「それではこれではどうか」と改善案を加えて元田に送ります。普通はこの時点で不愉快になるものです。井上は優秀だが同郷であっても年下です。自分の方が年上であり目上でもある。天皇の最側近の立場である自分の案を全てダメだと言うわけですから、「この野郎!」と思っても不思議はありません。しかし元田は違いました。「そうかそうか、確かにそうだ。」と全てを受け入れて、同じようなやりとりを何度も続けることまでしました。
あくまでも明治天皇のお立場が全て。自分の感情は後。絶対に天皇の威光を汚してはならない。この思いは二人にとって強く念頭に置かれていたことです。自分の意見が突っぱねられようが、それが最善であればそれでいいのです。それが二人のスタンスでした。
日本をまとめ、天皇を守るために、自らを捨てて草案の完成を目指した二人の覚悟。それが熊本同郷の大先輩方の手で行われたのだと感じると、私も身の引き締まる思いがしました。教育に携わる者として、恥ずかしくない成果を残したいと改めて感じました。
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