【日本史の授業】鎖国政策が始まった経緯から幕末までの流れを一挙に整理してみよう!|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー

こんにちは。熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です。

 

 

今日は、先日ご紹介しました『マンガ 面白いほどよくわかる新選組』、及び大河ドラマ『新選組!』をベースとして、幕末(江戸時代末期)の流れを全体まとめて復習してみたいと思います。多少細かくなっても、全体の複雑な関連性がわかるように手広く調べていきますので、新選組幕末の動乱期がお好きな方は是非お付き合い下さい。

 

 

何しろこの時代は重要な登場人物が著しく多い。長州と薩摩、土佐に会津と、京には数多くの藩がさまざまな立場で跋扈しており、さらには長州の中でも穏健派と過激派に分かれたり、水戸藩は水戸藩で重要な動きを見せたものの明治新政府になってからは全く日の目を見れずにいたり、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、新選組、幕府の動き、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの動き、佐久間象山に勝海舟、もちろん桂小五郎や西郷隆盛、松平容保、徳川第14代将軍家茂や後の15代将軍一橋慶喜、第121代孝明天皇など、追うべき人物が多過ぎます。

 

 

また、なぜ薩摩?なぜ長州?なぜ会津?なぜ土佐?なぜ水戸?こういった「なぜ」にも切り込んでいきたいと思っています。熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミーはこの「なぜ」がいつも気になり、常にしつこく掘り下げていくからこそ、繋がる根っこが見えて理解が一気に進むという学び方をしていますので、この日本史の授業を通して「当塾の学び方」も併せてご体感いただけたらと思います。

 

 

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幕末の時系列

まずは全体の流れを理解するためにも、17世紀頃から幕末にかけて起きた重要案件を並べて時系列にまとめていきましょう。

 

1543年 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝える

1586年7月 九州平定により秀吉が薩摩藩(島津義久)を鎮める

1587年 豊臣秀吉がキリスト教の布教を禁じる「バテレン追放令」を発する

      ※九州平定の際宣教師ガスパール・コエリョに見せられた軍艦で秀吉は、スペインの日本植民地化計画に気付いたとされる

       また、この九州遠征で初めて知った日本人の奴隷問題もきっかけとされる

1613年 徳川幕府、禁教政策を強化

     島原藩主・有馬直純も棄教

     島原藩・天草藩の領民達へのキリシタン弾圧始まる

1637年 島原・天草一揆

     ※天草四郎をリーダーとするキリシタン農民たちの一揆

1639年 鎖国政策開始

     ※キリスト教による士農工商制度崩壊を危惧

1806年 ロシアの外交官レザノフの部下、松前藩居留地襲撃(蝦夷地)

     ※ロシアからの襲撃に備え蝦夷地の防衛強化するも武力衝突が増える

1808年 フェートン号事件(長崎)

1811年 ゴローニン事件(蝦夷地)

1824年 水戸藩の漁師が外国船と物々交換をする事件勃発

     薩摩藩とイギリスとの間で宝島事件勃発

     水戸藩とイギリスによる大津浜事件勃発

1825年 異国船打払令

1828年 シーボルト事件(長崎)

1830年1月 水戸藩にて徳川斉昭の藩政改革始まる

      ※今までになかった新しい藩政改革を他藩に先駆けて行ったことで、幕府は幕藩体制の崩壊を危惧

1833年ー37年 天保の大飢饉

1837年 モリソン号事件

1838年 高野長英が『戊戌夢物語』脱稿→蛮社の獄

1839年 渡辺崋山が慎機論を執筆→蛮社の獄

      近藤勇の養父・周助が試衛館を創設(多摩)

1840年 アヘン戦争

1841年ー43年 水野忠邦による天保の改革

1842年 玉木文之進(吉田松陰の叔父)が松下村塾を開く(長州)

1844年 徳川斉昭を改革の行き過ぎで失脚させる(水戸)

     ※以後水戸藩内の改革推進派と門閥保守派との抗争が激化

1846年 孝明天皇即位

1853年 ペリーの浦賀来航

     徳川斉昭が海防参与→過激思想により井伊直弼と対立(水戸)

     将軍継嗣問題勃発(一橋派と南紀派)

1854年 日米和親条約

      吉田松陰、密航を企てるが失敗

      安政の大地震(東海、南海にてM8.4)

1855年 安政の大地震(江戸にてM7)

     ※水戸学派の主力だった藤田東湖が圧死

1856年ー60年 アロー戦争(第二次アヘン戦争)

1857年 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ(長州)

1858年 老中・堀田正睦(まさよし)日米修好通商条約の勅許を求めるも拒絶される

      ※尊皇攘夷派の岩倉具視らが抗議、反対

      井伊直弼が大老へ

      徳川家茂が第14代将軍へ

      総領事ハリスとの間で日米修好通商条約締結(不平等条約)

      尊王攘夷派や一橋派を相手に安政の大獄

     ※梅田雲浜が捕縛、吉田松陰が野山獄に入牢

     ※松下村塾が閉鎖(その後何度か塾生や叔父などの手で再開される)

1860年 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される

      公武合体の推進(家茂公への和宮降嫁案が浮上、検討される)

1861年 長州藩主・毛利慶親が議奏(正親町三条実愛)を通じて「航海遠略策」を孝明天皇に献策

1862年2月 家茂公に和宮降嫁

      ※岩倉具視、久世広周安藤信正公武合体派に協力して進めた

         高杉晋作、上海へ留学

      ※中国人が西洋人にこき使われている現状を目の当たりにし攘夷派へ

      薩摩藩・島津久光が西郷隆盛先発で上京し警護に当たる

      ※尊皇攘夷派及び一橋慶喜を将軍にすべく中央政局への参加を目論む

         岩倉具視、公武合体推進の態度を佐幕派と疑われ失脚

      寺田屋事件

      ※関白及び京都所司代の殺害を目論む薩摩藩の尊攘過激派を、久光が命令を発し殺害させた事件

    8月 生麦事件(薩摩)

    12月 会津藩主松平容保が京都守護職へ

1863年     幕府が家茂公警護のための浪士組募集

            壬生浪士組、会津藩主松平容保の預かりとなる

     5月 長州藩、下関の砲台から外国船を砲撃

      ※5月10日が、外国嫌いの孝明天皇が攘夷を幕府に迫り、家茂が攘夷決行の期限としていた日

     6月 高杉晋作、奇兵隊を組織

     7月 薩英戦争

      ※薩摩藩はこの戦争をきっかけに「開国派」へ転身

      第一次下関戦争(四カ国艦隊への砲撃)

     8月 八月十八日の政変にて功績を挙げた壬生浪士組は「新選組」の名を授かる

1864年     池田屋事件

       禁門の変(蛤御門の変)

       ※吉田松陰の弟子、久坂玄瑞自刃。京の攘夷派が一掃。岩倉具視の嫌疑晴れるも桂や西郷との交わりの結果討幕派へ転身

     9月 四国艦隊下関砲撃事件(第二次下関戦争)

       ※長州の尊皇攘夷派はこれをきっかけに開国派へ転身

        第一次長州征討

1866年   薩長同盟締結

        第二次長州征討

    12月 孝明天皇崩御

1867年5月 薩土密約

      ※薩摩の西郷隆盛らと土佐の板垣退助らが討幕の密約を交わした

     10月 大政奉還

        ※土佐藩主・山内容堂からの建白にあったものを上表したもの

         本を質せば、坂本龍馬の船中八策を受けて後藤象二郎が武力衝突を避けるため山内容堂に提案していたもの

         薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だったと見られている

     12月 近江屋事件(坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺)

1868年1月 王政復古の大号令

      小御所会議(王政復古クーデター)

      ※西郷隆盛と岩倉具視が画策

      鳥羽伏見の戦い

      ※旧幕府軍、朝敵に。

     3月 甲州勝沼の戦い

       ※板垣退助の軍勢と近藤勇の軍勢が戦った歴史に残る合戦

        ただし甲陽鎮撫隊(新選組含む)は西洋式銃火器の使用に慣れておらず、たった1時間で壊滅させられた

     4月 近藤勇捕縛、斬首 

     3-4月 西郷隆盛と勝海舟とで江戸城無血開城

     5月 上野戦争

         ※彰義隊(渋沢栄一の2歳上の従兄・渋沢成一郎がリーダー)が結成

       新政府軍指揮官は大村益次郎(第二次長州征伐で活躍した長州藩士)で1日で終結させた

                 奥羽越列藩軍事同盟

       ※彼らが提出した「会津藩、庄内藩の朝敵赦免」の嘆願書が認められず、新政権樹立同盟へと転身

     6-11月 会津戦争

        ※白虎隊(高校生ほどの青年達で組織された軍隊)

        ※旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し蝦夷地(北海道)へ向かった→箱館戦争へ

1869年 箱館戦争(五稜郭の戦い)

      ※土方歳三戦死、最後の局長・相馬主計(かずえ)投降、戊辰戦争終結

1915年 永倉新八死去

 

薩摩藩は、鎌倉時代から続く名門・島津家が治めてきました。始祖の島津忠久は鎌倉幕府・初代将軍源頼朝の庶子だったという伝承もあり、江戸300藩の中でも飛び抜けた名門だったわけです。

また、島津家は関ヶ原合戦後に徳川家に仕えた外様大名でしたが、徳川家に屈しなかったという“誇り”がありました。関ヶ原の戦いでは敵側の西軍に属しましたが、所領が安堵されるという特別待遇を受けたこともあり、薩摩武士には「徳川とはあくまで対等の関係」という考えがあったようです。

薩摩出身の有能な人物は数多い。幕末に活躍した薩摩藩士は西郷隆盛や大久保利通だけではありません。家老の小松帯刀、勝海舟から「薩摩では大久保利通に次ぐ傑物」と評された村田新八など、さまざまな人物が活躍していますし、第2代内閣総理大臣の黒田清隆、日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎、実業界で活躍した五代友厚など、明治期にも多くの薩摩人が活躍しました。

斉彬が先進的な事業を起こすことができたのは、当時の薩摩藩が海外情勢をいち早く入手できる環境にあったからです。江戸時代は完全に国交を閉ざしていたわけではなく、4つの窓口(対馬・蝦夷・長崎・琉球)がありました。なかでも琉球は薩摩藩の管轄下にあり、琉球を通して海外の情勢を知ることができたことが強みだったわけです。薩摩藩も高い情報収集力を誇り、それが維新の礎にもなったのでした。

実際、薩摩藩士には尊王攘夷思想に傾倒する者も多かったのですが、藩首脳部はその暴発を抑え、幕府が推進する公武合体政策を支持しました。そして、京都では会津藩と協力して長州藩の尊王攘夷派を追い出します。幕府と表立って敵対することなく、その内に入って影響力を強める画策をしたのです。理想に向かい直進する長州藩とは違って、むしろ薩摩藩には現実的な行動原理があったといえます。

ちなみに、薩摩藩はそもそも島津 重豪(しまづ しげひで)が11代将軍徳川家斉の正室(御台所)・広大院(実名・篤姫)の父であったりするので、徳川将軍家との繋がりが強かった。その曾孫・第11代薩摩藩主・島津斉彬の養女となって13代将軍・徳川家定の正室となったのが天璋院篤姫(広大院の実名にあやかる)。

 

土佐藩は江戸時代、土佐国(高知県)一国を領有した外様藩。土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていましたが、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊は東軍に味方したため大幅な加増を受けて、土佐一国を与えられこの地を治めることとなりました。1600年関ヶ原の戦い後山内一豊が土佐藩祖となってから、明治の版籍奉還、廃藩置県に至るまで16代続いた藩です。幕末には、15代・豊信(容堂)が登場し、1853年の黒船来航を機に吉田東洋を起用し藩政改革を断行しました。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で豊信が隠居すると武市瑞山(武市半平太)を中心とした土佐勤王党により暗殺されました。なお、東洋の門下より後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を輩出しています。また、瑞山の知己で郷士だったのが坂本龍馬や中岡慎太郎などです。

 

「徳川御三家」は、徳川家康の子を祖とする家系で、尾張藩(徳川家康の九男「徳川義直(よしなお)」を祖とする家系であり)の尾張徳川家、紀州藩(徳川家康の十男「徳川頼宣(よりのぶ)」を祖とする家系)の紀州徳川家、水戸藩(徳川家康の十一男「徳川頼房(よりふさ)」を祖とする家系)の水戸徳川家に分けることができます。 

 

1639年(寛永16年)より江戸幕府は、スペインやポルトガルなどキリスト教国からの来航や、ルソン島(現在のフィリピン)を始めとする東南アジアへの日本人の渡航、及び交流を禁じ、中国や朝鮮、琉球王国、オランダとのみ貿易を行う鎖国政策を採っていました。江戸幕府が鎖国を選んだ理由のひとつは、キリスト教の教えが日本に浸透することを懸念していたことです。江戸時代の日本では、「士農工商」(しのうこうしょう)から成る身分制度が設けられ、武士は日本刀を携行でき、無礼を働いた人を切り捨てても良いとする「切り捨て御免」の特権を与えられていました。一方、欧米諸国から日本にやって来たキリスト教の教えは「人類平等」。そのため江戸幕府は、キリスト教が広まることによって身分制度が崩れ、武士の地位低下が危ぶまれると考えたため、キリスト教を禁止し、鎖国の道を選んだと推測されています。

 

一橋慶喜は御三家である水戸藩徳川斉昭の七男として水戸藩江戸屋敷で生まれました。

 

幕藩体制とは江戸幕府の統治の基本的な仕組みです。大名の所領と人民とその行政組織を合わせて「藩」と呼び、大名はそれぞれの藩の統治をまかされて、将軍に忠誠を尽くし軍役の義務を負います。将軍と大名(1万石以上の武士)との主従関係に支えられた、幕府と藩とで全国の土地と人民を治める体制のことを幕藩体制と言う。

 

新選組の母体・浪士組の結成の地となった小石川伝通院の院号は、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)の法号に因んで付けられている。徳川将軍家の菩提寺。ちなみに天保の改革を行った水野忠邦の水野家は於大の方の実家にあたる。

 

藤田東湖は水戸学の大家。藤田は本居宣長の国学(文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問。 儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたもの)を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。

 

水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。『大日本史』(だいにほんし)の編纂は、司馬遷の『史記』に影響を受けた徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として250年かけて明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った。水戸学においては光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。大日本史編纂に携わった学者たちを水戸学派と呼んだ。

 

イギリス船の「フェートン号」が長崎港へ不法侵入し、食料などを日本に要求する「フェートン号事件」。

ロシアの軍艦が同様に上陸したため、軍艦長「ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン」が日本側に捕えられ、2年間箱館(現在の北海道函館市)に幽閉される「ゴローニン事件」が発生します。

1824年、水戸藩(現在の茨城県)の漁師が外国船と物々交換をするという事件が起こり、300人もの漁師が、江戸幕府による取り調べを受けることとなります。

同年、薩摩藩(現在の鹿児島県)とイギリスとの間で、「宝島事件」が発生。イギリス船が、現在の鹿児島県鹿児島郡に位置する「宝島」に来航し、島民に牛を譲渡するよう要求。ところが、島民達よりこれを拒まれたため上陸し、牛を略奪したのです。

水戸藩とイギリスによる「大津浜事件」が起こります。これは、水戸藩領の大津(現在の北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸したため、水戸藩が審問(しんもん:事情などについて、その詳細を問いただすこと)し、船に戻らせた事件

 

これらを受けて1825年に異国船打払令を発布するわけですが、表向きは鎖国政策を採っていた日本を諸外国から守るための政策でしたが、民衆が外国人と交流することで、江戸幕府転覆を企てることのないように抑え込む目的があったとも言われています。

 

1828年「シーボルト事件」が勃発。オランダの軍医として長崎の出島に住むことを許されたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、多くの日本人と交流していました。江戸幕府お抱えの天文学者「高橋景康」も、シーボルトとの交流があったひとりです。

あるとき、シーボルトがオランダへ送る荷物の中に、「徳川将軍家」の家紋である「三つ葉葵」の紋付着物など、江戸幕府が国外に持ち出すことを禁じていた品々が発見されます。この出来事は、外国人に対して強硬策を採る江戸幕府によりスパイ事件として扱われ、シーボルトは国外追放処分、高橋景康は投獄されてしまったのです。

 

モリソン号事件とは1837年、漂流民返還と通商交渉のために来航したアメリカ船モリソン号が、会津の浦賀と薩摩の山川で異国船打払令のために砲撃された事件。浦賀では浦賀奉行所が砲撃した。江戸幕府は、モリソン号が来た理由を知らず、翌年オランダ商館の報告により、初めて知ることとなりました。

 

『慎機論』とは、モリソン号事件をもれ聞いた渡辺崋山が、徳川幕府の対外強硬政策を批判した書。高野長英の『戊戌夢物語』も同じくモリソン号事件をめぐる幕府の対外政策を批判したもの。夢の中で知識人らの討議を聞いたという形式で,世界の大勢を論じ,異国船打払いの無謀を警告した。

 

1853年ペリー来航に際しては、徳川斉昭は海防参与に任じられました。

しかし、ここに至ってなお「交渉すると見せかけて敵将を斬り黒船を乗っ取るべし」と過激な攘夷思想は変わることなく、それもあって大老の井伊直弼と激しく対立したことにより、再びの謹慎を命じられました。この処分に怒った水戸の脱藩藩士達は、桜田門外の変で井伊大老を暗殺。その一方で、藩内においては守旧派と改革派が抗争対立を繰り返す内戦状態となり、改革派=天狗党の挙兵にまで至っています。

 

当時老中首座だった堀田正睦(まさよし)はみずから京都まで出向き条約の勅許を願い出ました。ところが朝廷は予想以上に攘夷思想でかたまっていて、勅許をもらうことはできませんでした。条約締結の算段がくるった幕府はショックを受け窮地に追い込まれます。 そこで、幕府の南紀派は事態を打開するために将軍家に工作し、井伊直弼を大老職につけるわけです。直弼は大老になるやいなや、日米修好通商条約を朝廷の勅許なしで調印してしまいました。その直弼に対して「朝廷の意向を無視して条約調印する(違勅調印)とは言語道断!」と抗議した徳川斉昭とその子一橋慶喜、越前福井藩の松平慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)(のちの慶勝)らを不時登城(登城日以外に登城すること)の罪をかぶせて謹慎や隠居の罰を与えました。徳川斉昭に対してはのちに永蟄居(終身刑)です。これが安政の大獄の始まりとなります。

 

幕府の要職の多くを占める譜代大名には穏便派が多く要職になることの難しい外様大名の多くは過激派が多い。そのことから、保守的な穏便派は旧来通り血縁を重視する南紀派を支持し、過激派の人々は血縁にとらわれない実力重視の一橋派を支持するようになります。

 

孝明天皇は「神聖な日本に、汚らわしい異国の者が定住するなどあってはならぬ」と日米修好通商条約を非常に嫌っていました。江戸時代の天皇は基本的にただのお飾りですが、外交問題が起こると国のトップという立場から再び天皇が歴史の表舞台に登場することになります。孝明天皇は過激派(一橋派)と考え方が似ていたことから、一時は将軍継嗣問題に負けた一橋派も朝廷に接近。攘夷や徳川家茂の将軍位撤廃を求めて井伊直弼率いる南紀派に対抗しようとします。これが安政の大獄に拍車をかけるわけです。

 

一橋派に薩摩藩主の島津斉彬がいる。薩摩藩主島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で誕生。曾祖父で蘭癖大名と言われた8代藩主重豪に可愛がられ、洋学に興味を持ち、開明的で英邁な人物として有名に。斉彬を買っていた幕府老中阿部正弘。斉彬は藩政改革と洋式造船、反射炉などの集成館事業を起こし、小松帯刀、西郷隆盛や大久保利通らを登用、そして一橋派として大奥に将軍家定の3番目の正室として養女篤姫を送り込み、一橋慶喜将軍擁立に尽力。

 

生麦事件とは1862年に起きたイギリス商人に対する殺傷事件。当時薩摩藩主だった島津茂久の父・久光の大名行列が数百名の藩士達と江戸から薩摩へ帰る途中、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったところで、観光で川崎大師に向かう途中だったイギリスの商人リチャードソンら4人が、騎乗したまま久光の大名行列の中へ入り込み、列を乱したことに始まります。さらに久光が乗った駕籠の付近まで差し迫ったことから、藩士がリチャードソンらイギリス人商人を死傷させるという「生麦事件」が起きたのです。

この生麦事件に対してイギリスの代理公使ニールは、江戸幕府に対し10万ポンドの賠償金を、薩摩藩には2万5,000ポンドと犯人の引渡し、及びイギリス士官の立会いのもとにこれを処刑することを要求します。しかし、統治力が衰退していた幕府は、犯人の差出しを拒否する薩摩藩を従わせることができず、賠償金を支払うことしかできませんでした。そのためニールは、要求に応じない薩摩藩に対し、7隻の艦隊を率いて直接薩摩藩に犯人の処刑を迫りましたが、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」として、これに応じなかったため、1863年(文久3年)7月2日、「薩英戦争」が始まったのです。

ただ、この戦争によって薩摩藩は開国派に転身し、イギリスも弱腰の幕府とよりも果敢な戦いぶりと交渉で見せた態度で信用を置き薩摩藩との友好関係を結ぶことに。ここから薩摩藩はイギリスとの結びつきを強め、倒幕のための武器の調達や知識の習得、留学の斡旋などが進んでいくことになります。

 

会津藩はなぜ攘夷なのか。徳川三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之公の遺訓がその運命を大きく変えることとなる。 「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず。」 この家訓第一条の「徳川家への忠誠」が、いかなる諸事情があろうとも徳川家へ「忠義」を尽くす会津藩の根源であり、第9代藩主容保もこれを貫こうとしたのである。

また多摩の郷士達の集まりであった壬生浪士組の目的は、武闘行為ではなく尽忠報国の誠にあり、その理想は連綿と受け継がれてきた会津藩の士道「忠義」にあった。

 

1863年に結成された奇兵隊。「奇兵」は「正規」に対するもので、正式な武士とは違い奇襲攻撃をおこなう兵という意味。藩の正規軍を補う目的でつくられ、武士以外の者が武装することが初めて公に認められました。主な構成員は武士が50%、農民が40%、商人などが10%と言われています。これが徴兵ではなく有志を募った点が画期的だったと言います。

 

奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争中に陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王(孝明天皇の義弟)を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成した同盟です。 元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)でしたが、赦免嘆願が拒絶されたため新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。

 

実は上野公園には寛永寺という徳川将軍家の菩提寺があります。西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城の会談を行った後、それに反対する徳川家の家臣たちが彰義隊という隊を結成してこの寛永寺に立て籠もりました。この時、長州藩の大村益次郎が新政府軍の指揮を執っていましたが、西郷隆盛も軍勢を率いて彰義隊との戦いに参戦。現在の上野公園の西郷隆盛像がある場所が、西郷隆盛が軍勢を率いて攻め込んだ場所だとされています。

 

参考サイト

刀剣ワールド

幕末トラベラーズ 日本史用語集

まなれきドットコム

ドラゴン桜と学ぶ学習メディア study Z

・東洋経済オンライン

 

 

 

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